昨日は礼拝の中で「証し」のときがありました。

「証し」とは、自分がいただいた神様の恵みを他の人たちに伝えることです。

今回「証し」をしてくださった方は、引越しを機に奥様と あお教会に通われるようになりました。娘さんとお孫さんもクリスチャンです。

10年前、心臓発作で倒れたとき、死を覚悟する一方で 「妻にちゃんとお礼を言っていない。辛抱させてごめん、一緒にいてくれてありがとうと伝えたい」という切実な思いが湧き上がったそうです。思いは行動に表さなければならないと知ったとお話しされました。手術後、外の空気のおいしさをはじめ、日常のさまざまなことに感謝するようになったそうです。

朗読された聖書箇所は、新約聖書 テサロニケへの第Ⅰの手紙 5章16~18節です。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」

お話の最後に、祈りについて語ってくださいました。

クリスチャンの集会で「順番に祈りましょう」と言われたとき、人前で祈ることは苦手だと感じた。しかし、上手に祈ろうと思わなくていい、自分の言葉で祈ればいいと知り、楽になった。祈ったあとには自分の一方的な思いに気付くこともある。祈りは神との対話であり、神への賛美であり、叫びでもある。ヘルマン・ホイヴェルスの詩「最上のわざ」に書かれているとおり、私たちは、老いて動けなくなっても、愛するすべての人のうえに神様の恵みを祈ることができる。

「だから、『祈ることしかできません』と言わないでください。祈りは力なのですから」とこの方はおっしゃいました。

確かに、私たちは、誰かの助けになりたいと思っても具体的に介入できないとき、申し訳なさとともに「祈ることしかできませんが・・」と言うことはないでしょうか。

「証し」を通して、私たちは神様がいかに個人的に深くかかわってくださるかを知り、同時に、思わぬ気付きを得ることがあります。