当教会牧師の植田哲昭です。私は、希望を失い、元気をなくしている現在の日本人の皆さんに、少しでも元気を取り戻してもらうために、富や地位のためでなく、愛によって生きたすばらしい先人の生涯を紹介したいと思い、筆を執った次第です。人生、いろいろな価値観や考え方、生き方があるということを知っていただき、生きる勇気をもっていただければ望外の幸せです。

さて、そこで最初の今回は、日本のマザーテレサと言われた井深八重(1897年~1988年)を紹介したいと思います。・・・
井深八重は、明治30年(1897年)10月23日に、代々会津藩家老を勤めた名門井深家に生まれます。当時、明治学院学長であった叔父の井深梶之助に預けられ、文字通り深窓のお嬢様として何不自由なく育ちました。さらに、いわゆる英才教育を施され、同志社女学校を卒業後は、英語教師として長崎県立女学校に赴任します。良縁話も進み、前途洋々たる将来が広がっていました。
ところが、赴任して一年後の22歳の時、突然、八重のからだに異変が襲います。原因不明の赤い斑点が全身に発症したのです。そこで早速診てもらった結果、医者は「ハンセン病」であると診断したのです。
昭和30年ごろに特効薬が開発されて以来、現在ではまったく恐れる必要のない病気となっているハンセン病も、当時は「業病」と恐れられ、罹患すると、家族との縁を切らされ、戸籍も抜かれ、名前も変更して、一生、死ぬまで施設での生活を続けなければならなかったのでした。
尤も、八重にはそのことは知らされず、事の次第を知った叔父たちに連れてこられたところは、静岡県の御殿場にあった療養施設でした。この施設は、名をレゼーというフランス人神父が、日本のハンセン病患者のために作った療養所でした。施設の名前は「神山復生病院」。大正8年のことです。
八重は、この施設に着いて初めて自分が「ハンセン病」であることを知り、これ以上ない大きな衝撃を受けました。戸籍が抜かれ、名前も堀清子と変名され、病気が進んで死ぬまで一生、外に出ることも、ましてや愛する家族と面会することもできないという、まさに「絶望」としか言いようのない地獄の人生を送らなければならなかったからです。
それから三ヶ月間、朝から晩まで八重の両眼から涙がとめどなく流れ続けました。彼女曰く、「そこで一生分の涙を流しました」。窓から外の景色を見てもカラーには見えず、モノクロにしか見えませんでした。

三ヵ月後、ようやく落ち着きを取り戻した八重は、少しは周りを伺う余裕を持つことができました。しばらく患者さんたちと接していくうちに、彼女はなんともいえない不思議な思いに捕らわれていきました。それは、どの患者さんの顔も大変穏やかな表情でいて、時には笑みさえも浮かべているのです。
「私は絶望のどん底にいて、とても笑うような気持ちにはなれないのに、どうしてあれだけ穏やかで、しかも笑うことさえできるのだろう。過酷な運命に対する呪いと怒りが生み出すニヒルな笑いとも違うし・・・。
しかも、いつも一生懸命に世話をしているレゼー神父も不思議だ。どうして故国フランスを捨ててまで、言葉も通じない極東の国に来て、しかも、その国から捨てられたハンセン病患者の面倒を喜んで看ているのだろう。」
さらに、当時は罹患を恐れ、患者を診る医者も、世話をする看護婦も一人もいませんでしたので、病状の軽い患者が重い患者の面倒を看ていたのでした。その様子を見ていた八重は、そこに世間にはないとても麗しい交わりがあることを感じたのです。益々、不思議な思いが募っていきました。
そういう時、レゼー神父から一度、礼拝に出席してみないかとのお誘いを受けました。礼拝とは、キリスト教の中心的な宗教行事で、毎週日曜日の朝、信者が集まって、いっしょに讃美歌を歌ったり、聖書のことばや説き明かし(説教)を聞いたり、神にお祈りをささげたりするものです。施設の一角に礼拝堂があり、そこで毎週礼拝が行われていたのです。初めて出席した日、八重はそこで生涯忘れることのできないほどの大きな感動を受けたのです。
なんと絶望の中にいて苦しんでいるはずの患者が皆、顔を輝かせながら聖歌を歌っていたのです。しかも、「神さま。心から感謝します。」と、感謝の祈りまでささげているではありませんか。予想もしなかったあまりの光景に、大きな感動を受けると共に、はっきりとこう確信したのです。
「患者さんたちはすべてのものを失っても、またどんな苦しみの中にあっても、決して奪われることのない確かな何かを持っている! 私もそれがほしい」と。
そこで、彼女はただちにそのホンモノを得るべく、心から信頼しているレゼー神父の下に走り、その答えを求めました。すると、レゼー神父は、「患者さんたちが持っているもの。それはイエス・キリストです。」と明確に答えてくれたのです。
「イエス・キリストは、神を信じないで、神の前に罪を犯す人間を赦して救うために、2000年前に父なる神さまから遣わされ、この世に誕生されました。そして33歳の時に、すべての人間の罪を背負って、自ら十字架についてくださったのです。このイエスさまを信じるときに、すべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられます。神は、私たち罪ある人間を救うために、罪の無いお方、神のひとり子イエス・キリストを犠牲にしてくださいました。ここに神さまの愛が現われています。
患者さんたちも、イエスさまを心から信じて、まことの愛と永遠の希望を持つようになって、あのような苦しみと絶望の中にあっても、喜びと感謝をもって生きていくことができるのです。
八重さん。聖書に『空の空。一切は空である。』ということばがあります。これは、この世でどんなに富や地位を得ても、イエス・キリストを信じて永遠のいのちを持っていなければ、一切は空しいという意味です。患者さんたちは、それがよくわかったのです。」
彼女もレゼー神父の話を聞いて、イエスさまを信じて洗礼を受け、苦しみを乗り越える大きな喜びと平安を得ることができたのです。決して奪われることのないホンモノを得たのです。

ところで、しばらくすると、全身を覆っていた斑点がいつの間にかすっかり消えてきれいになっていることに八重は気付きました。そこで、レゼー神父に相談すると、早速受診するように勧められ、当時、日本の医学界で一、二を争うほどの名医と謳われたある医者を紹介されました。東京在住のその名医に診察してもらったところ、彼女は最初からハンセン病ではなく、ただの皮膚病であったことがわかりました。最初の医者の診断は、まったくの誤診だったのです。
もちろん、彼女はそれには喜びました。でも、診察を終えての帰り道、行き交う人々の様子を見ているうちに、なんとも空しい思いに捕らわれたのでした。美しく着飾り、美味しいものを食べ、大きな家に住んでいることが幸せであるという人々の生き方。ちょっとしたことですぐに奪われてしまうような目に見えるものを追い求めていく生き方が、八重には本当に虚しくつまらなく思えたのでした。それは、イエス・キリストという無くてはならないホンモノをしっかり握って希望と喜びを持って生きている患者たちと毎日接していたからでしょう。
八重の報告を聞いたレゼー神父は、喜びながらこう言いました。
「八重さん。ハンセン病でない以上、もうここにいる必要はありません。これからどういう道を歩もうと、それはあなたの自由です。」
それに対して八重はこう答えます。
「いいえ。神父様。私は、この患者さんたちによって、決して奪われることのないホンモノを得ることができました。患者さんのその傷が私にホンモノを伝えてくれたのです。私はこれから、看護婦として患者さんたちといっしょに生きていきたいと心から願っています。どうか、ここにおいてください。」
・・・それから四年間、八重は東京の看護学校に学び、日本で初めてハンセン病患者を看護する看護師として平成元年、92歳で天に召されるまで忠実に働いたのでした。医療関係の仕事だけではなく、洗濯や掃除に炊事、それに自給生活のために畑仕事まで文字通り身を粉にして働いたのでした。八重はそれを振り返って「本当に充実したすばらしい日々であった」と語っています。もちろん、後にその働きが社会で大きく評価され、「ナイチンゲール記章」や「聖十字勲章」を初め、数々の賞も受けていますが、きっと賞など、八重にとってどうでもよいものだと思っていたと推察されます。

晩年の八重は、人から「どうしてこのような生涯を選んだのか」という質問を受けた時、いつもこう答えていたと言われています。
「応えずには、おれなかった。」

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