「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」新約聖書ヨハネによる福音書9章3節
このことばは、弟子たちが一人の盲人を見て、「この人が生まれつき盲目なのは本人の罪のためか、それとも両親の罪のためか」と尋ねたことへのイエスさまの答えです。現在の日本でもそうですが、当時のイスラエルも、そのような因果応報的な考え方に支配されていたのです。
しかし、イエスさまはそのような考え方を完全に否定し、「この人に神のわざが現れるためである」と教えられました。そして、このことばに触れて、苦悩の人生から喜びと感謝の人生に変えられた方は、数え切れないほどおられます。
今から60年ほど昔、私のいるあお教会の近所に、生まれながら足に障害のある一人の女性がおられました(当時、まだ教会はありません)。彼女はある日、たまたまつけたラジオを通して、放送が始まったばかりの「ルーテルアワー」というキリスト教の番組を知り、それから毎日楽しみに聞き続けました。
しかし、ラジオを聞くだけでは心は満たされません。もっと聖書の話を聞きたいと思い、当時、ルーテルアワーの責任者であった正木茂牧師(故人)を囲んで、家族だけの小さな集まりが始まりました。
正木牧師はそこで、上の聖書のことばを引用し、障害は因縁や祟りや罪のためではなく、神さまが彼女を通して素晴らしいわざを現わしてくださるためであるとお話しされました。
すると、彼女のみならず、彼女の父親もこの話を聞いて深く感動し、「こんな素晴らしい話を聞いたことがない。もっと多くの人々に知らせたい」と願い、公民館を開放し、集まりが広がっていきました。その後、集まりは益々広まり、多くの方が聖書のメッセージに触れ、苦しみから解放され、喜びと希望に満たされる新しい人生に変えられ、やがて現在の場所にあお教会が建てられ、現在にいたっています。
もし、彼女の存在がなかったら、小野市粟生町に教会は建っていません。そうすると、少なくともこの60年間、あお教会を通してイエス・キリストに出会い、喜びと希望と感謝の人生に変えられた200人以上の人生も存在しなかったに違いありません。神さまは彼女を通して、多くの人に喜びと希望を与えるという素晴らしいみわざを現わしてくださったのです。そのことを考えますと、意味のない人生はひとつもありませんし、意味のない苦しみや試練もありません。みな、神さまの栄光を現わすように、一人一人が特別な使命を与えられていることを心から実感します。(あお福音ルーテル教会牧師 植田哲昭)