機械の不具合で録音できなかった24日のメッセージ文書です。冒頭4:7~4:18は聖書のことばです。

2018年6月24日

「イエスのいのちに生きる」

新約聖書 コリント人への第二の手紙4章7~18節

4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

4:13 「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。

4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

<以下メッセージ>

いつもはマタイやマルコなどの福音書からメッセージさせていただいていますが、きょうは使徒書のコリント人への第二の手紙からさせていただきたいと思います。実はこの第二コリントのこの箇所は、一口に言ってクリスチャンとは何か、ということを学ぶ上でとても大切なことを教えている箇所であるからです。三つの点からみことばを受け取りたいと思います。

1)私たちクリスチャンは、内に神の力が備わっている存在 

クリスチャンとは何か、を語るとき、私はまずこのみことばを覚えたいと思います。聖書は「私たちは、この宝を土の器に入れている」と言っています。皆さんは御自分がどのような器だとお思いでしょうか。「私は金の器です」と、口にする人は稀でしょう。もしかすると心密かに「金まではいかなくても銀ぐらいには行くかな」と思う人もおられるかもしれません。

しかし、この手紙を書いた、あの使徒パウロは自分のことを「土の器だ」と主張しているのです。謙遜な気持ちもあるとは思いますが、イエスさまを知ってから、彼は心から自分を土の器だと思っていたと思います。そして、パウロでさえ土の器であったのなら、私は「泥の器」かなと思います。

それはさておき、この土の器というのは当時、使い捨てにされていた食器で、現在で言えば、紙コップか紙皿のようなものです。あお教会でもクリスマスの祝会には係の方が紙皿に御馳走を盛ったり、紙コップに飲み物を入れて机の上にきれいに並べられます。

でも、その御馳走を皆さんがムシャムシャ食べて無くなれば、あっという間に紙皿はゴミ箱に捨てられてしまいます。それは紙皿自体に価値があるのではなく、食べ物に価値があるからです。一回使用された紙皿は、もはや何の価値もない。当時の土の器も、そのように、使われた後はポーンと投げ捨てられる何の価値もない器でした。

そして、私たちもそういう存在なのだと聖書は教えるのです。私は毎週、毎週、講壇に立って、説教を語っています。それは私自身が偉いからでも、価値があるからでもありません。私の中におられるイエス・キリストが偉く、イエスさまに価値があるのであり、また私の口を通して語られる神のみことば、福音に価値があるからです。私自身はどこまで行ってもまったく土の器か、泥の器に過ぎない者ですが、私の中にはイエス・キリストという測り知れない大きな宝が入ってるのです。そして、それは皆さんもまったく同じです。

私たちはともすれば、自分の小ささや弱さ、欠目、そういうものに目を奪われて落ち込んでしまいます。「こんな私に何ができる」と下を向きながら、トボトボと歩みがちではないでしょうか。確かに自分だけを見ていたら、そうかもしれません。

しかし、私たちがどのような器であろうとも、たとえひびが入ったような欠目だらけの器であったっとしても、それは問題ではありません。私の内に、あなたの中にイエス・キリストという偉大な宝がいてくださっているか、それが問題です。「私の中におられるキリストが、隣人のために私を通して働いてくださる。キリストが私の中におられるから、私は大きな希望に生きることができる。」皆さん、その信仰が大事なのです。

2)たとえ苦しめられても、決して行き詰ることはない人生

次に覚えたいことは、キリストが私の中におられるから、たとえ大きな苦しみの力に襲われても、決して行き詰ったり、滅びることはないということです。8節を読みましょう。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

クリスチャン人生というのは、本当にこのとおりの人生です。四方八方から苦しめられても、窮することはありません。途方に暮れても、行き詰ることが無いのです。

そしてこの「苦しめられる」と訳された言葉はギリシャ語の原語では、「周りから押しつぶされる」とか、「圧迫される」いう意味の言葉です。そして「窮する」と訳された原語は、「窮地に追い込まれる」、つまり「万事休す」という意味で、つまり、「周りからどんなに圧迫を受けて、押しつぶされても、決して万事休すということにはならない」という意味です。

次の「途方に暮れる」と訳された原語は、「道がない」とか「渡しがない」という意味で、生きていく術を失った状態を表す言葉です。そして、「行き詰る」と訳された原語は、「絶望する」とか「生きる望みさえ失う」という意味の言葉で、つまり、「たとえ目の前に道がなく、生きていく術が無くなっても、決して生きる望みを失うことはない」という意味です。

つまり、全体を要約すると、クリスチャンである私たちは、たとえどんなに周りから圧迫を受けて押しつぶされそうになっても、決して窮地に追い込まれて万事休すということにはならないし、ましてや、目の前の道が閉ざされ生きていく術が無くなっても、決して生きる望みを失うことはない。必ず道は開かれる」ということです。

なぜ、そう言えるのでしょう。それは、十字架に架かり、三日目に死の力を打ち破って死からよみがえられたイエス・キリストのいのちをいただき、そのいのちに生かされているからです。どんなに強い人でも、絶対に抗えない死の力。すべてを飲み込む圧倒的な死の力さえ打ち破って、死に勝利されたそのイエスのいのちに生かされているのが私たちです。信じる者にこんな大きな力を与えてくれる宗教は、キリスト教をおいて他にはありません。

そして、そのキリストのいのちに生かされているのだから、キリストのいのちを輝かせながら生きるのがクリスチャンであります。11節に私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。とあります。この「私たち生きている者は」というのは、パウロを初め、使徒としてイエスさまのことを伝えている人のことです。

イエスさまを伝える働きは、いつ捕まえられて拷問を受けたり、処刑されるかわからない。まさに、「イエスのために絶えず死に渡されている」状態でした。しかし、それをも良しとして伝道の使命に生きるときに、内にあるキリストのいのちが益々輝いて、人々にイエスさまがどんなに素晴らしいかを証しできたのです。あなたの内にキリストのいのちが輝いているか、キリストのいのちに溢れているか、それが最も大切です。

現在の日本においては、江戸時代のような目に見える厳しい迫害はありません。しかし、本当にキリストに従って行こうとするとき、現在でも周りから嘲りを受けることがよくあります。「宗教に凝っているやつや」と軽蔑されたり、「なんか悩みでもあるのか」と聞かれたりすることがあるでしょう。家族からでさえ「お前はアッチやからな」と見えない壁を作られたり、また、クリスチャンであるというだけで、わけもなく敵意を持たれたり、憎まれたりといろいろあるでしょう。

そういう中で、キリストと自分の将来を天秤にかけて、「どっちが得やろ」というような姿勢では生涯、イエスさまについて行くことは難しいと思います。むしろ、誰から何を言われようが、またキリストを信じることによって、何かを失おうが、「イエスさまは、私のためにいのちを捨ててくださいました。そのおかげで私は救われ、平安と希望と喜びをいただいて生きています。だから、私もイエスさまのために何を失っても、従っていきます」と告白していく、そこにイエスさまのいのちによって輝いて生きる世界が生まれてくるのです。

ところで、今、ロシアでワールドカップが行なわれておりますし、日本ではプロ野球が毎日行われています。また、8月になれば高校野球も行われます。でも、野球とサッカー、両方の選手になることはできません。子どもの遊びならともかく、プロになろうと思えば、どちらかを選んで、それに全力を傾けて練習に励まなければなりません。

では、どうして彼らプロの選手たちは、あそこまで厳しい練習に耐えることができるのでしょうか。私はその一番大きな原因は、野球でもサッカーでも、また柔道でもスケートでも何でもそうですが、そのスポーツが持っている魅力を本当に分ったからだと思います。プロになるとかオリンピックに出るとかいう前に、そのスポーツができることが嬉しくて嬉しくてたまらないという、そういう人でなければ、あの厳しい練習に耐えられるわけがない。

もちろん、キリスト教にはスポーツ選手のような何か厳しい修行や訓練があるわけではありません。信じるだけで罪赦され、完全に救われる世界です。でも、スポーツと同じように、いやそんな次元よりももっと深く、イエスさまの素晴らしさを知って行けば行くほど、じっとしておられない。ただの理屈や教えではなく、本当に心から、イエスさまの深い愛と恵みを知ったならば、誰かから強制されなくても、いや、むしろ、反対されればされるほど、イエスさまについて行きたいと思うようになってくるのです。

皆さん、そういう意味で、私たちもイエスさまを知るプロになろうではありませんか。イエスさまの魅力を語り出したら止まらない。しまいにはイエスさまの愛を知った喜びと感動で、涙を流して顔をくしゃくしゃにしながら証しする。それほど、イエスさまの魅力を知っていただきたいと思います。

3)だからこそ、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めて生きよう

三番目は、だからこそ、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めるということです。皆さん。この世界は、実は見えないものによって支配されている世界なのです。目に見える物は、すべて目に見えないものから生み出され、見えないものによってコントロールされているのです。そのようなことを言うと、何かオカルトだと思われるかもしれませんが、決してオカルトではありません。

人が何かものを造り出す時、何も考えないで造り出すことはありません。まず、「こんなものがあったら、世の中もっと便利になるだろうな」と頭の中で考え出し、それに基づいて設計図を書き、その設計図に基づいて一つ一つの部品を丹念に作り、最後にそれを組み立てて、それが自動車や汽車、飛行機とか、またカメラやテレビや冷蔵庫という見える形に出来上がっていきます。

ですから、どんな場合でも、目に見えないものが先にあり、それに基づいて見える形が出来上がっていくのです。自然界もそうです。こんな素晴らしい自然が偶然に出来るわけがありません。まず神さまの頭の中に、宇宙や地球や生物や人間などの設計図があって、それに基づいて精巧に創造されたのです。

「あなたの人生はあなたの考えた通りになる」と言った人がいます。ある面、それは正しいのです。聖書の中で、百人隊長がイエスさまに「私のしもべが病気です。癒してください」と願った時、イエスさまは「あなたの信じたようになるように」とおっしゃり、その瞬間、離れた場所にいるそのしもべが癒されたという話が出てきます。

この話は祈りと信仰によって、神さまという目に見えない存在を通して目に見える世界を動かしていくという話です。目には見えない神さまを信じて祈るというのは、それぐらい力あるわざなのです。もちろん、それが神さまの御心に適った場合であることは言うまでもありませんが。

現在,ある意味で一番注目されている国は北朝鮮です。先日、米朝首脳会談がありました。その北朝鮮にも昔から教会があります。表立っては活動できませんから、地下教会があって、現在、数万人のクリスチャンがそこで信仰生活を歩んでおられるようです。

そんな地下教会のリーダーを務めていた一人の女性の証しが、ある本に紹介されていました。彼女の家は代々クリスチャンの家系で、迫害の中でも信仰を守り、礼拝を続けていました。時々、中国に行っては、支援団体からいただく伝道の活動資金と聖書を北朝鮮に持って帰ることが彼女の重要な働きでした。

しかし、ある日、彼女の働きが政府に知られてしまい、捕らえられてしまいまったのです。牢獄に入れられた彼女は、それから昼も夜も休みなく六か月間、毎日拷問を受け続けました。とうとうからだはボロボロになり、下半身と顔面の筋肉は動かなくなるほどでした。政府は彼女に人身売買の濡れ衣を着せ、「宗教スパイ」という罪で死刑にしようとしました。

しかし、彼女の救出のために教会は祈り続け、決してあきらめませんでした。祈り続けると、「決してあきらめてはいけない」という御霊の声なき声に促され、益々祈りは強くなりました。そして、ついには「必ず彼女を救える!」という確信が与えられたのです。教会と彼女の家族と親族は一致団結して祈り、自分の家や畑などの財産を売って、彼女を救うためのお金を作りました。そして、とうとうある日、彼女は病気を理由に奇跡的に釈放されたのです。

牢獄から出た彼女は30キロ近くも体重が減り、骨と皮ばかりとなり、心身ともに弱り切っていました。しかし、体力が快復した時、彼女は家族と共に、北朝鮮の残酷な現実を世界に訴えるために脱北を決意しました。そして、これまた奇跡的に脱北に成功し、中国から韓国にわたり、自分が経験した北朝鮮での迫害の経験を証ししたのです。今も彼女は韓国で北朝鮮の教会を支援し、北朝鮮の救いと平和統一を韓国の教会に訴える働きをしているそうです。

そのように祈りの力は目には見えませんが、ものすごい力を持っているのです。だからこそ、みことばに信頼し、主の御名を賛美し、希望を持って祈り続けていくことがとても大切です。

皆さん。私たちはイエスさまの十字架によって罪赦された特別な存在です。だからたとえ土の器であっても、中にはイエスさまがおられ、イエスさまのいのちに生かされ、輝いて生きることができる。だからこそ、祈りによって勝利することができる。決して押しつぶされることはありません。死の力さえ打ち破られたイエスさまのいのちによって、ますます輝いて生きて行こうではありませんか。